サイバー攻撃の高度化により、「暗号を使っている」だけでは安心できない時代になりました。重要なのは、どの暗号技術を、どの条件で、どう運用するかまで含めて判断できることです。本記事では、日本の暗号技術評価プロジェクトCRYPTRECについて、何を評価し、どんな場面で企業の判断材料になるのかを、実務目線で整理します。
CRYPTREC(クリプトレック)は、日本における暗号技術の評価・検討を行い、電子政府をはじめとするシステムで参照される暗号技術の指針を示すプロジェクトです。暗号アルゴリズムは「理論的に強いか」だけでなく、「実装や運用で安全性が崩れていないか」「実務で使える性能か」といった観点も重要です。CRYPTRECは、こうした観点を踏まえながら、暗号技術の安全性や実装性能などを評価し、その結果を整理・公表します。
暗号は、通信の盗聴対策(機密性)、データ改ざん防止(完全性)、利用者や機器の正当性確認(認証)など、情報システムの根幹を支えます。一方で、暗号技術は時間とともに評価が変わります。計算能力の向上、暗号解析の進展、実装上の攻撃(サイドチャネルなど)、そして量子計算機の研究進展などにより、「以前は推奨されていたが今は避けたい」技術が出てきます。CRYPTRECの価値は、こうした変化を前提に、国内の利用者が参照しやすい形で“判断の軸”を提供する点にあります。
CRYPTRECは「特定の製品を保証する仕組み」ではありません。暗号技術の評価結果やリストは、調達・設計・運用で暗号を選ぶ際の“基準点”です。最終的な安全性は、鍵管理、設定、実装品質、運用監査、インシデント対応などの総合力で決まります。つまり、CRYPTRECは暗号選定の出発点を整えるものであり、そこから先の設計と運用が企業側に求められます。
CRYPTRECの活動は、大きく「評価して示す」「普及に役立つ情報を整える」「継続的に見直す」という役割で理解すると整理しやすくなります。
暗号方式は、数学的な安全性だけでなく、実装したときの性能や、実装上の弱点の入り込みやすさも問題になります。たとえば、暗号自体は強くても、実装が不適切で鍵が漏れる、乱数が弱い、設定が危険、といった理由で事故につながることがあります。CRYPTRECは、暗号技術を評価し、現実の利用での信頼性を高める材料を提供します。
CRYPTRECの評価結果は、暗号技術選定の参考情報として整理されます。電子政府向けの暗号選定のために公表された「電子政府推奨暗号リスト」は、その代表例です。企業にとっても、官公庁案件だけでなく、社会的説明責任(なぜその暗号を選んだのか)を求められる場面で参照しやすい指標になります。
暗号は「一度決めたら終わり」ではありません。推奨の背景には、当時の知見や脅威モデルがあります。CRYPTRECのような枠組みがあることで、技術動向の変化を前提に、評価・整理を継続しやすくなります。
CRYPTRECは、暗号技術の評価・検討に関わる委員会等の枠組みで運営され、評価結果をもとに情報を整理・発信します。暗号技術を「方式として評価する」視点と、暗号を実装した「モジュールとして評価する」視点があり、議論の対象が混ざると誤解が生まれます。ここでは、理解のために論点を分けておきます。
企業実務では、この区別が非常に重要です。「推奨暗号を使っているから安全」と短絡しがちですが、実際の事故は実装・設定・鍵管理の不備で起こることも多く、暗号方式と暗号モジュールを分けて考える必要があります。
暗号技術と一口に言っても、用途によって種類が異なります。CRYPTRECが扱う領域を理解するために、代表的な分類を押さえておきましょう。
| 分類 | 主な役割 | 典型的な利用例 |
|---|---|---|
| 共通鍵暗号 | 高速な暗号化・復号(機密性の確保) | ディスク暗号化、VPN、TLS通信のデータ暗号など |
| 公開鍵暗号 | 鍵配送、署名、認証(なりすまし防止) | TLS証明書、電子署名、鍵交換など |
| ハッシュ関数 | 改ざん検知、パスワード保護の基礎要素 | ファイル整合性確認、署名の前処理など |
| 暗号利用モード等 | 暗号方式の安全な使い方を規定 | AESをどのモードで使うか、運用条件の定義など |
この分類を押さえると、「自社が今困っているのはどの領域か」を切り分けられるようになります。たとえばTLS更改の話は公開鍵や署名の運用問題が中心になりやすく、バックアップ暗号化は共通鍵と鍵管理の運用が中心になりやすい、といった具合です。
CRYPTRECの評価は、暗号を「理論」「実装」「運用」のどこでつまずくか、という観点で理解すると現場に落とし込みやすくなります。
重要なのは、これらが相互に関連する点です。たとえば「安全性が高いが非常に遅い暗号」はシステム全体の可用性を落とし、結果的に“運用で無効化される”リスクがあります。逆に「速いが運用条件が難しい暗号」は設定ミスの温床になります。評価を見るときは、方式そのものだけでなく現場に導入したときの事故の起きやすさも意識して読むのが実務的です。
CRYPTRECの評価結果の代表的な整理形として、「電子政府推奨暗号リスト」があります。これは、調達や設計の場で「最低限ここを基準にしよう」という共通言語を作る役割を持ちます。ここで大切なのは、リストは“固定の正解”ではなく、技術と脅威の変化を前提にした指針だという点です。リストを参照する側は、更新状況や前提条件(想定用途や設定条件)を確認し、システム要件に合わせて判断する必要があります。
企業にとってCRYPTRECは「暗号の正解集」ではなく、「暗号選定・更改・監査の説明力を上げる材料」です。ここからは、ありがちな落とし穴と、実務での使いどころを具体化します。
暗号事故の原因は、暗号方式そのものよりも、次のような“周辺の設計・運用”にあることが少なくありません。
CRYPTRECのリストを参照することは重要ですが、同時に「鍵管理と設定が安全か」「監査できるか」「事故時に止血できるか」まで含めて設計することが必要です。
暗号更改が難航する企業の多くは、そもそも「どこで何を使っているか」が把握できていません。実務で最初に行うべきは、暗号の棚卸しです。
棚卸しの目的は「置き換え計画を作ること」です。CRYPTRECの指針を参照する前に、自社の現状を把握しないと、適切な優先順位が付けられません。
暗号は将来必ず見直しが発生します。そこで重要になるのが、暗号を“交換可能”にする設計、いわゆるクリプトアジリティ(暗号の機動性)です。
CRYPTRECを参照する価値は、こうした更改計画の“説明”にもあります。「なぜ今更改が必要なのか」を社内外に説明する材料として使えます。
企業がグローバル展開する場合、国内指針だけでなく、国際標準や主要クラウド/主要ブラウザの動向とも整合させる必要があります。暗号は相互運用性が重要であり、社内の安全性だけでなく「取引先・顧客・端末環境で成立するか」という制約が常にあります。CRYPTRECの評価結果は国内での説明力を高める一方、国際標準との整合も並行して確認する、という姿勢が現実的です。
CRYPTRECは、暗号技術を安全性・実装性能などの観点で評価し、暗号選定の判断材料を提供する日本の重要な取り組みです。企業にとっては、暗号方式の選定だけでなく、暗号更改の計画、調達要件の整理、監査や説明責任の補強にも役立ちます。ただし、暗号の安全性は方式だけで決まらず、鍵管理・設定・運用の品質が最終的なリスクを左右します。CRYPTRECを“基準点”として活用しつつ、自社システムの前提条件に合わせて、暗号を継続的に見直せる体制を整えることが重要です。
暗号技術を評価・整理し、暗号選定の判断材料となる情報を公表する日本のプロジェクトです。
使えます。調達要件の整理や更改理由の説明など、暗号選定の根拠づけに役立ちます。
電子政府での調達・利用を想定し、評価結果を踏まえて推奨される暗号技術を整理したリストです。
絶対ではありません。実装品質、鍵管理、設定、運用監査などが不十分だと事故は起こり得ます。
自社でどこにどんな暗号が使われているかを棚卸しし、置き換え優先度を付けることです。
計算能力や解析手法の進展で安全性評価が変わるため、将来のリスクを見越して更新が必要になります。
扱います。方式だけでなく、暗号を実装したモジュールの評価基準づくりなども重要な論点です。
鍵の漏えい、弱い設定、誤実装、運用ミスなどで暗号の前提が崩れると、暗号があっても防げません。
利用する暗号方式、更新可能性、設定の柔軟性、監査ログ、鍵管理方式を確認するのが基本です。
リスト参照に加えて、暗号の棚卸しと更改計画、鍵管理・設定の監査手順までセットで整えることです。