企業や組織における不正行為は、単なる「一部の悪意ある人」の問題ではなく、環境や仕組み、心理状態が重なった結果として生じます。本記事では、その構造を整理して理解するためのフレームワークである「不正のトライアングル」を紹介し、情報セキュリティの観点からどのように活用できるかを解説します。
不正行為が「起きてから対処する」のではなく、「起きにくい状態を設計する」ために、動機・機会・正当化という3つの視点から、自社で取るべき対策を考える手がかりを整理していきます。
不正のトライアングルとは、不正行為が発生する背景に共通して見られる三つの要素を示した理論的なモデルです。もともとは犯罪学・会計不正の文脈で提唱された概念であり、不正の原因を「個人の資質」だけに求めるのではなく、環境や心理を含めて構造的に捉えるためのフレームワークとして利用されています。
具体的には、不正を引き起こす要因として動機(プレッシャーやインセンティブ)、機会(やろうと思えばできてしまう状況)、そして行為を正当化(自己合理化)する心の働きの三つが揃うことで、不正行為が生じる可能性が高まると説明されます。
不正行為の「きっかけ」だけでなく、「なぜブレーキが効かなくなったのか」までを含めて考えられるため、予防策を検討するうえで有効なフレームワークとして幅広く活用されています。
動機とは、不正行為に踏み出したくなるプレッシャーや欲求を指します。典型例としては、借金や生活苦といった財政的な問題、急激な生活水準の変化、周囲との格差意識、業績目標の過度なプレッシャーなどが挙げられます。こうした要因が積み重なると、「何としてもお金や成果が必要だ」という強い心理的圧力が生じます。
機会は、不正行為を実行できてしまう環境や仕組みです。具体的には、権限が集中しているのに相互牽制が働いていない状態、アクセス権限の過剰付与、監査やログ確認の不徹底、管理手続きの抜け穴などが該当します。「やればできるし、見つかりにくい」と感じさせてしまう状態が、機会を与えているといえます。
正当化は、本人が自分の不正を「仕方がない」「本当の悪者は自分ではない」と感じるための理由付けです。「会社は自分を正当に評価していない」「一時的に借りているだけ」「みんなやっている」といった自己合理化によって、罪悪感を薄め、不正行為との心理的な距離を縮めてしまいます。
例えば、財政難から会社の資金を横領したケースを考えてみます。この場合、動機は「個人の財政的な危機」「借金の返済プレッシャー」、機会は「経理担当として入出金処理に単独でアクセスできたこと」「上長によるチェックが形式的だったこと」、そして正当化は「自分の給料は安すぎる」「いずれ返すつもりだから問題ない」といった考え方です。
また、内部監査や会計監査では、不正のトライアングルの三要素に着目してリスク評価を行うことがあります。どの部門・どの業務に「動機」「機会」「正当化」の要素が生じやすいかを洗い出し、内部統制の強化や権限設計の見直しにつなげていきます。
このように、不正のトライアングルは、発生した不正を後から分析する際にも、予防策を設計する際にも役立つ枠組みです。
情報セキュリティの世界でも、不正のトライアングルは重要な示唆を与えます。特に、内部関係者による情報漏えいやシステム破壊といったインサイダー脅威を考える際に、この三要素で整理すると原因や対策が見えやすくなります。
例えば、社内のITスタッフが機密情報を持ち出した事例では、動機として「転職先へのアピール」「副業としての販売」「会社への不満や報復心」などが挙げられます。機会としては「広範な管理者権限」「ログ監視の形骸化」「USBメモリやクラウドストレージへの持ち出し制限の甘さ」などが関与します。そして正当化として「自分の技術力が正当に評価されていない」「この情報は自分が作ったものだから、自分のものだ」といった考えに陥ることがあります。
動機だけを潰しても、機会や正当化の余地が残っていれば不正リスクはゼロになりません。情報セキュリティの観点では、動機・機会・正当化の三方向からバランスよく対策を講じることが、現実的で効果的なアプローチといえます。
不正のトライアングルの最初の要素である動機は、個人が不正行為に踏み出そうとする「理由」や「プレッシャー」を意味します。これは単なる漠然とした欲望ではなく、「収入を増やしたい」「損失を避けたい」といった具体的な期待や不安として現れることが多くあります。
動機を理解することは、「どのような人が危険か」をラベリングするためではなく、「どのような環境や仕組みが、人に過度なプレッシャーを与えていないか」を検証するために重要です。
動機が生じる一般的な理由としては、次のようなものが挙げられます。
こうした要因に組織文化や人間関係のストレスが重なると、「多少のルール違反ならやむを得ない」という心理状態に傾きやすくなります。
動機そのものが即座に不正行為に直結するとは限りません。しかし、強いプレッシャーが長期間続き、適切な相談相手や支援策がない場合、徐々に判断力や倫理感が鈍っていくことがあります。
例えば、負債を抱えた従業員が、「今さえ乗り切ればいい」「少額なら問題にならない」と考え始めると、不正行為が「現実的な選択肢」のひとつとして視界に入ってきます。そこに「実行できる機会」と「自分を納得させる理由」が加わると、不正行為という行動につながってしまいます。
この意味で、動機は不正行為の「燃料」に相当し、燃料が多いほど小さな火種でも燃え広がりやすくなります。
情報セキュリティの分野では、動機として次のようなケースが典型的です。
どの場合も、背景には「経済的なメリット」「心理的な満足」「将来への不安」など、何らかの報酬や救済を期待する心理が働いています。
動機そのものを完全になくすことはできませんが、過度なプレッシャーや不公平感を軽減することは可能です。代表的な対策としては次のようなものがあります。
あわせて、内部通報制度(ホットライン)やコンプライアンス教育を通じて、問題を「不正で解決する」のではなく、「相談や報告で解決する」選択肢を提示することも、動機をコントロールする有効な手段となります。
不正のトライアングルにおける機会は、「やろうと思えば不正ができてしまう状況」を指します。不正の意思があっても、実行できる手段がなければ被害は発生しません。逆に言えば、機会を減らすことで、不正行為の発生確率を大きく下げることができます。
機会は、主に組織の仕組みや運用の弱さから生じます。例えば、権限の集中、業務プロセスの属人化、チェック機能の欠如、ログが記録されていない・見られていないといった状態は、いずれも「不正がやりやすい環境」をつくってしまいます。
情報セキュリティにおける「機会」の例としては、次のようなものが挙げられます。
これらは、それだけで不正を生むわけではありませんが、「もし不正をしたくなった人がいた場合に、実行しやすくなる要因」です。情報セキュリティでは、こうした「隙」をできるだけ減らす設計が求められます。
機会を減らすための基本方針は、「権限を必要最小限にし、見える化を徹底する」ことです。具体的には次のような対策が考えられます。
これらを組み合わせることで、「不正をしようとしてもすぐに発覚しそうだ」「そもそも一人では完結できない」という感覚を従業員に与え、不正の抑止力を高めることができます。
機会が多い環境では、不正行為が「偶発的に起きる」リスクも高まります。例えば、本来はテストデータで行うべき検証を安易に本番データで行ってしまい、それを隠すためにログ改ざんに手を染めるなど、最初は悪意がなかったケースでも、不適切な機会が不正へとつながることがあります。
また、「周囲も見ていない」「やってもバレなさそうだ」という感覚は、正当化のプロセスとも相互に影響し合います。機会が豊富な環境は、動機と正当化のブレーキを弱め、不正を現実的な選択肢にしてしまう点に注意が必要です。
したがって、機会を計画的に減らすことは、不正行為の危険性を組織としてコントロールするうえで、非常に重要な施策となります。
不正のトライアングルの三つ目の要素である正当化は、「自分の行為を自分で許してしまうプロセス」です。多くの人は、日常的には「不正は良くない」と認識していますが、それでも不正が起きるのは、この正当化が働くためです。
正当化のメカニズムを理解することは、「どのような言い訳や考え方が、不正のハードルを下げてしまうのか」を把握し、組織全体でそれを許容しない文化をつくるうえで重要です。
正当化とは、本来は許されないはずの行為を、自分にとって受け入れ可能なものとして解釈し直すことです。代表的なパターンとしては、次のようなものがあります。
正当化が生まれると、本人の中で「不正=悪いこと」という認識が弱まり、「例外的に許される行為」に書き換えられます。その結果、動機や機会が存在している場合に、不正行為に踏み切りやすくなってしまいます。
情報セキュリティの現場では、次のような形で正当化が現れやすくなります。
いずれも本人の主観では「合理的な理由」があるように見えても、組織全体から見ると重大なリスクを生む行為です。こうした正当化が積み重なると、組織内のセキュリティ文化そのものが弱体化してしまいます。
正当化を完全に消すことは難しいものの、「正当化しにくい環境」をつくることは可能です。代表的な対策としては次のようなものがあります。
「多少のルール違反は仕方ない」という空気を許さず、「小さな抜け道も不正の入り口になりうる」という共通認識を持つことが、正当化を抑えるうえで重要です。
正当化が広がると、情報セキュリティポリシーが「建前」で終わってしまう危険性があります。ルールがあっても、「今回だけ」「自分だけ」という例外が当たり前になれば、システムとしてのセキュリティレベルは急速に低下します。
また、正当化された行為は、本人にとって「問題行動」という意識が薄いため、発覚しても再発防止につながりにくいという特徴があります。本人は「悪意はなかった」と主張しがちで、その背景にある価値観や組織文化を見直さない限り、似たような事案が繰り返されてしまいます。
この意味で、正当化は情報セキュリティリスクを増幅させる「見えにくい要因」であり、動機や機会と同様に、組織的な管理・教育の対象として扱う必要があります。
不正のトライアングルは、「動機」「機会」「正当化」の三つが揃ったときに、不正行為が発生しやすいと説明します。裏を返せば、いずれか一つでも十分にコントロールできれば、不正リスクを大きく引き下げることができます。ここでは、三要素それぞれに対する具体的な戦略を整理します。
動機に対しては、従業員の過度なストレスや不満を放置しないことが重要です。公平性・透明性の高い評価と報酬制度、相談しやすい職場環境、キャリア支援などにより、「不正に頼らざるを得ない」という行き詰まり感を軽減します。
機会に対しては、内部統制と技術的な統制を組み合わせて、権限の最適化と可視化を徹底します。アクセス制御、ログ取得とレビュー、職務分掌、特権ID管理などが代表的な施策です。
正当化に対しては、倫理教育やトップメッセージを通じて、「結果が良ければ手段は問わない」という価値観を許容しない姿勢を明確にします。小さなルール違反や抜け道を見過ごさず、組織としての一貫した対応をとることが求められます。
情報セキュリティポリシーの策定と、それに基づく具体的なプロセス設計は、不正のトライアングルに対応するうえで欠かせない要素です。例えば次のような内容が挙げられます。
ポリシーは作って終わりではなく、現場の業務に落とし込み、定期的な見直しと改善を行うことで初めて機能します。実務に合わないポリシーは、正当化の材料にもなり得るため注意が必要です。
最後に、不正のトライアングルにおいて「動機」「機会」「正当化」のいずれにも影響を与えるのが、社内の情報セキュリティ意識です。情報セキュリティは専門部署だけの責任ではなく、全従業員が関わるテーマであることを浸透させる必要があります。
そのために、次のような取り組みが有効です。
経営層が自らセキュリティの重要性を発信し、ルール遵守や改善への取り組みを評価することで、「不正のトライアングルを小さく保つ」組織文化を育てていくことができます。
不正のトライアングルへの対策を実践するうえでは、最新の攻撃手法や技術動向を踏まえることも重要です。クラウド利用の拡大、リモートワークやモバイルワークの普及、SaaSの増加などに伴い、不正の「機会」の形も変化しています。
ゼロトラストセキュリティ、特権ID管理ツール、SIEM(セキュリティ情報・イベント管理)、SOAR(セキュリティオーケストレーション・自動化・レスポンス)などの技術は、「機会の縮小」や「不正の早期発見」に役立つ代表的な仕組みです。単にツールを導入するだけでなく、組織のルールや運用と組み合わせて活用することが重要です。
本記事では、「不正のトライアングル」という概念を起点に、不正行為を誘発する三つの要素である動機・機会・正当化と、情報セキュリティとの関わりについて整理しました。不正は、特別な誰かだけの問題ではなく、環境と心理が重なった結果としてどの組織でも起こりうるものだと理解しておく必要があります。
不正のトライアングルは、業種や組織規模を問わず、不正行為の背景を整理するために使える汎用的なモデルです。単に「動機があるかどうか」だけを見るのではなく、実行できる機会や、それを許してしまう正当化の有無まで含めて考えることで、不正リスクの全体像が見えやすくなります。
既に発生した不正事案の分析にも、将来の不正を予防するための対策立案にも利用できる点が、このモデルの大きな強みです。
情報セキュリティ対策の目的は、単に外部攻撃からシステムを守ることだけではありません。内部不正による情報漏えいやシステム破壊を防ぐことも、同じくらい重要なテーマです。
不正のトライアングルの観点を取り入れることで、アクセス制御やログ管理といった技術的な対策だけでなく、評価制度や組織文化、倫理教育といった人・組織の側面も含めて、バランスの取れた情報セキュリティ対策を設計しやすくなります。
不正のトライアングルが教えてくれる最も重要なポイントは、「一定の条件が揃えば、誰でも不正行為の加害者になりうる」という現実です。特定の個人だけを問題視するのではなく、組織としてどのような条件を作ってしまっているのかに目を向けることが、不正防止の第一歩です。
動機・機会・正当化のいずれか一つに偏った対策ではなく、三つすべてに目を配ることが、持続的な不正防止につながります。
今後も、クラウドサービスやリモートワークなど、情報システムの利用形態は変化し続けます。それに伴い、不正のトライアングルの三要素が表れる場所や形も変わっていきます。
だからこそ、特定の技術やルールに依存するだけでなく、「動機・機会・正当化」という視点を共通言語として持ち続けることが重要です。このフレームワークを手がかりに、自社の情報セキュリティ対策を定期的に見直し、変化する環境に合わせてアップデートしていくことが求められます。
本記事が、自社の不正防止策や情報セキュリティ対策を検討する際の一助となれば幸いです。
不正のトライアングルは、不正行為が発生する背景を「動機」「機会」「正当化」の三つの要素で整理するモデルで、不正の原因を構造的に理解するために用いられます。
動機は不正に踏み出したくなるプレッシャーや欲求、機会は不正を実行できてしまう環境や仕組み、正当化は自分の不正行為を「仕方がない」と許してしまう心の働きを指します。
情報セキュリティ分野では、インサイダー脅威や内部不正を分析する際に三要素を整理し、動機を軽減し、機会を減らし、正当化を生みにくくする施策を組み合わせて対策を設計するために活用できます。
公正で透明性の高い評価と報酬制度の運用、相談しやすい環境づくり、ハラスメントや不当なプレッシャーの抑止などにより、過度な不満や行き詰まり感を減らすことが有効です。
最小権限の原則に基づくアクセス権限設計、職務分掌による相互牽制、特権ID管理、ログの取得と定期レビュー、退職・異動時のアカウント無効化プロセスなどが代表的な内部統制です。
コンプライアンスと倫理に関する継続的な教育、小さなルール違反も許容しない姿勢の明示、違反時の一貫した対応、良い行動を評価する仕組みづくりにより正当化を生みにくくできます。
中小企業でも、不正のトライアングルは不正リスクを整理するうえで有効であり、少人数ゆえに権限が集中しやすい点や人間関係の濃さゆえの正当化などを見直す際に役立ちます。
ゼロトラストセキュリティは「誰も何も常に信用しない」という前提で機会を減らす考え方であり、不正のトライアングルにおける機会のコントロールを技術的に支援するアプローチといえます。
誰がいつ何をしたかを追跡できるログを取得し、特権操作や異常なアクセスを重点的にレビューすることで機会を抑止し、発見されやすい環境をつくることがポイントです。
現状の権限設計とログ取得状況を棚卸しし、最小権限と見える化を進めながら、並行してセキュリティ教育と相談窓口の整備を行うことが、三要素すべてに効く初期施策となります。